トネリエ圧印機(フランス製)



慶応4年(1868年)、閉鎖状態にあったイギリスの香港造幣局の機械一式を6万両で購入した圧印機のうちの1台で、
明治4年(1871年)の創業当初は金・銀貨幣の製造に、その後は銅貨幣の製造に使われました。


ウールホルン圧印機(ドイツ製)



新たに明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけてドイツから輸入された10台の圧印機の
うちの1台で、金・銀貨幣の製造に使われました。
\ YEN 円(圓)の誕生と命名 

黒船来航 ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けて1853年7月8日(嘉永6年6月3日)
に浦賀沖に午後5時に現れる、圓 誕生
17年5ヶ月前
慶応3年(1867年)10月の徳川慶喜による大政奉還から、圓の誕生はそれから3年後の事で有る 驚きの日本人の対応力 !
明治維新の彼らは一年を一ッ月の様に駆け抜けて行く まさに(翔ぶが如く)に


江戸時代の貨幣制度は金、銀、銭の三貨が併行流通するというものであり、
それぞれの単位は「両、分、朱」、「貫、匁」、「文」であった。しかもそれぞれが変動相場で取引され、
金貨は四進法と複雑なものであった。
開国により通貨の国際化を迫られた幕府は慶應2年(1866年)の改税約書において国外から持ち込まれる金銀貨を
日本の貨幣に改鋳することを請求できる自由造幣局の設立を確約した。


























旧暦 明治2年(1869)1月12日 大隈重信、外国官副知事と会計官御⽤掛を兼務し始めて財政畑を担当する
同年(1869)3⽉4⽇⼤隈重信は久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び元・銭・厘の価名単位で建議した。
しかるに出来上がった試作貨では「⼀圓」になっておりこの間に元から圓に変更されたことになるがその由来が謎である。

明治2年3月4日(1869年4月15日)、京都で開催された‌議事院上局会議において大隈重信は「親指と人差指の先で丸をつくると.
三歳の童児でもそれが貨幣を意味していることがわかる」と発言したとされ、
このことが「圓」の名称は円形の新貨幣の形状に由来しているとの俗説を生んだとされるが、
先の銀圓の由来からすれば単に俗説として切って捨てるべきものでもない。
また『古事類苑』には「一両ヲ一圓…ト云フガ如キハ、徳川時代、漢字書生間ノ通語ナリキ」と記されているように、
江戸時代後期には一部の知識人の間で両を圓と呼ぶ風習が普及していたという。新貨幣の通貨単位として「圓」が採用されることとなり、
日付は明治2年3月4日とされる。しかしその議決書には「…各国通行ノ制ニ則リ百銭ヲ以テ一元ト定メ…」と記されている。

また圓は「Yen」と表記されるが、なぜ「En」でなかったかは定かでない。しかし「En」では「イン」と発音される恐れがある、
「十円」を「Ten en」と表記すると「テネン」と発音される恐れがある、あるいは三文字とした方が安定感があるとの説がある。
その頃英国東洋銀行⾏横浜⽀店の仲介で閉鎖した香港造幣局の造幣機械一式を6万両
(現在の円換算ではおよそ、42~45億円位 (すごい高値)で購入したとされる。
英国建築技師ウォートルスを雇いれ造幣工場の建設に着手、大阪川崎町に造幣場建設を開始した
明治2年7月12日(1869年8月19日)の高輪談判では日本政府は近代貨幣制度に移行することを確約した。
明治3年11月12日(1871年1月2日)太政官裁定において、一圓銀貨を本位貨幣、金貨その他を補助貨幣とする案がまとめられたが、
明治3年12月29日(1871年2月18日)、アメリカに出張中の伊藤博文は、
「現在、世界の大勢は金本位に向かいつつあり」と大蔵卿に対し建言し、金本位制が採用されることとなった。

明治4年5月10日(1871年6月27日)には近代的な貨幣制度を定めた新貨条例が制定された。
新貨条例において、新貨幣の呼称は圓を以て起票とし、一圓金を原貨と定め一圓金は1.5グラムの純金を含むことが規定された。
通貨補助単位は圓の1/100が「錢(Sen)」、1/1000が「厘(Rin)」であった。また貿易取引専用に香港の一圓銀貨と
同じ量目、品位の貿易一圓銀が発行された。すなわち新貨条例には2つの「圓」が規定され、
当初貿易一圓銀100圓は金貨101圓に等価と定められた。旧一両は新貨幣一圓と等価に定められ、
通貨単位の移行は比較的スムーズなものとなった。
  余談  
伊藤博文が責任者であった大阪造幣寮の造幣機械は英国公使パー クスの世話で香港造幣局使用のものを上海の貿易商から
中古品を買い付けたもので
「 20馬力の蒸気機関2基が原動力で、金溶解用コークス炉6基、銀溶解用コークス炉12基、圧延機8台、
   圧穿機5台、圧縁機2台・英ワット社製 圧印機6台、仏トネリ社製 圧印機2台などが配置された」
  技師 キンドルも英国人であったが 蒸気力は不足するし炉壺はしだいにこわれるというありさまで欠陥品であった、
 予定のキャパシティーは容易に発揮しなかった。それでも明治八年までに、
「金貨五千三十三万八千余 円、 一円 銀貨四百八十六万三千余 円、 五十銭・二十銭・十銭 銀貨一千一百二万一千余 円 を
鋳造している。」   明治三年 明治四年の刻印 をもつ一円銀貨・大型五十銭銀貨はざっとこのような運命の象徴
としてうまれでたものである。
表のデザインは神鏡に菊桐をあしらい裏には竜模様がある。  外国の貨幣は総じて君主または元首の顔が鋳出されている。
そのまねもしたいが天皇陛下の御尊顔はおそれ多いとあって 菊花紋にしたと伝えられている。

以下 省略

明治30年(1897年)10月1日に施行された貨幣法では
「純金ノ量目二分(0.2匁、0.75グラム)ヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト称ス」と金平価が半減することとなった。

明治 4年 3月  直径13.51mm .品位 金 900/銅100 量目 1.67g
 
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創業当の職員・ちょんまげ頭の人もいる

貿易銀 殆どが流通後相手国により鋳潰された。

初代 一円銀貨

創業当初のお役人・断髪令・帯刀禁止令前の事

初期造幣に係わった、お雇い外国人達

1885年(明治18年)には一円銀貨との兌換を明記した紙幣(日本銀行兌換銀券)が発行された。
1897年の貨幣法施行による金兌換再開にともない、一円銀貨の金貨との引換と日本での通用停止が決まったしかし
日清戦争以来、
台湾や朝鮮では一円銀貨が盛んに流通していて、すぐに通用停止とすることができず、
当分の間、「丸銀」の極印を「一圓」の文字の左側または右側に打って、外地のみ通用を認めた。いざ実施してみると、
丸銀の極印のあるなしで、通用するしないといった市場の混乱が発生したため、1897年に発効した丸銀極印打ちは、
翌1898年(明治21年)には取りやめになり、その年より一円銀貨の日本内地での流通は禁止された。故に
明治20年から明治21年以外にも一円銀貨の丸銀打ちは存在するが
この年代以降の丸銀打ち一円は任意的に後世故意に打たれた物と推測され本来の丸銀打ちとは意味を異にする。
コレクションするなら明治21年以前の丸銀一円銀貨をお勧めしますがそれとて朝鮮や台湾での流通用とは限らないです。

一円銀貨(いちえんぎんか)は、日本の近代銀貨である。「円銀」とも呼ばれる。1871年(明治4年)の新貨条例により、
対外貿易専用銀貨として発行された。1914年(大正3年)まで製造され、台湾や日本併合後の朝鮮と中国で流通した。
品位は銀.900、銅.100、量目は26.96グラム(416グレイン)で大型と小型に大別され、量目は同じだが直径が異なる。
大型は直径38.6mm小型は38.1mmである。大型は1887年(明治20年)まで、薄いという理由で厚みを増すため小型にした
1888年(明治21年)から1914年(大正3年)まで製造された以降一円銀貨はその造幣を終了した。

 伊藤 博文 当時 34歳

明治4~6年頃の上級職員

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 大隈 重信 31歳の頃
現行貨幣
容量7.5MG
新1円(小型)  直径 38.1mm 厚さ 2.54㎜ 品位 銀900/銅100 量目 26.96g

1円(大型)  直径 38.58mm. 厚さ 2.2㎜ 品位 銀900/銅100 量目 26.96g

  直径 38.581mm. 厚さ2.2㎜ 量目 26.96g   品位 銀900/銅100 
 

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Modernization of Coinage Japan


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三貨制の意義と特色

著者 鹿野 嘉昭
雑誌名 經濟學論叢同志社大學經濟學會
上記 論文
若いな~ 二人とも なかなかのイケメンですね
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